「罪」の自覚
小説といえば、最近は、友情物が多いようである。そういうものを私は嫌いだし、そもそも、小説自体、余り読まない。そんな私であるが、以前読んだ「沈黙」が素晴らしかったので、遠藤周作の「海と毒薬」を読んだ。
読後、私は胸がしめつけられる思いをした。これまで、文章を読んで、こんな思いをしたことはなかった。その時、一気に精神的疲労が私の体を襲った。私はベッドの上に臥さざるを得なかった。ブルックナーの第九交響曲をかけながら、私はいつの間にか眠っていたほどであった。
何が、私にそのような影響を与えたのだろうか。無論、肉体的に疲れていた可能性がまったくなかったとはいえない。しかし、7 時間以上も眠っていたのだから、その可能性は低い。やはり、それは「海と毒薬」を読んだことによる精神的疲労によるものが大きかったのだろう。
遠藤がこの作品で読者に訴えかけたかったものとは何であったのだろうか。遠藤は、今、ここに過去の罪状を並べ立てることで、関係者を罰しようとしたのか – もちろん、そんなことはない。事前に、「沈黙」をはじめとする彼の作品を読んだ経験を持つ者ならば、彼の言わんとすることが「罪の意識」であることはすぐに分かるであろう。アメリカ人の捕虜を生体解剖する、しかもそれは医者の使命たる「人命救命」ではなく「殺人」である。その葛藤に苦しむ勝呂医師を描写することで、遠藤は「罪の意識」や「自己の良心」を読者に問題提起したといえよう。
「海と毒薬」は単なる事件小説ではない。それは、我々すべてに「罪」の自覚を促し、「良心」は汝に本当に存在しないのかと問うているのである。もちろん、遠藤はキリスト教の影響を多分に受けている。しかし、それを超えたところに遠藤の問題提起は存在するのである。
遠藤が扱ったのは戦争中という「例外状況」下における人間の心理である。そこから「海と毒薬」を単なる戦争文学の範疇でしか捉えられないひとは、作者のメッセージを正確に受け取ったとはいえないであろう。戦争とは、極端な例に過ぎない。我々が良心の呵責を感じなければならないのは、あらゆる時に存在しているはずである。それは、「医学生」として書かれている戸田の手記によく現れている(新潮文庫, p. 131):
こんな少年時代の思い出はぼくだけではあるまい。形こそ変れ、あなた達だっておそらく持っているものだろう。だがそれに続く次のような思い出は一体ぼくだけのものなのだろうか。それともあなた達もこれと似た経験を心のどこかにしまっているのか。
最後の「それともあなた達もこれと似た経験を心のどこかにしまっているのか。」というのは、まさしく、読者(さらに大きくいえば万人)が、「通常状態」下で持っている「罪」の自覚を促していると解釈できよう。
さらに、遠藤は、冒頭、勝呂がこの後も葛藤に苦しんでいる様子を描くことで、「罪」は一生背負わなければならないものであることを暗示している。「海と毒薬」は「罪」に真っ正面から立ち向かった作品であり、それが私の中にある「罪」の自覚を促し、精神的疲れを引き起こしたのである。
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