倫理的責任

8 月 15 日をまた迎えることとなった。あの戦争から 64 年が経ったことになる。しかし、北朝鮮の動向などによって、今、日本国内でも「集団自衛権行使容認論」や「非核 3 原則見直し論」などが、再び、主張されるようになってきた。こうした主張は、他の政治話題(特に社会保障)によって覆い隠されがちだが、決して看過できないものである。ここで、今一度、「第二次世界大戦」(呼び名は色々あるが、ここでは「第二次世界大戦」に統一する)がどのような意味をもち、そして我々はどのようなスタンスを取るべきなのかを考えていく必要があろう。

有史以降、何度となく人類は戦争をしてきた。それは様々な理由によるものであった。例えば、領土獲得願望や、外交上の衝突、宗教的情熱、内部の権力闘争、資源獲得願望などである。時代を経ると共に、戦争は複雑化し巨大化していった。

第二次世界大戦はそうした戦史の上でどのように位置付けられるのだろうか。第二次世界大戦が始まる前と終結後を比べたとき、そこには非常に大きな隔絶がある。それは近代の終わりであり、現代の始まりであった。すでに近代科学は宗教(特にここではキリスト教)の地位をその特権的地位から引きずり下ろしていたが、第二次世界大戦後の世界は、信仰の拠り所を探す旅に出ることとなった。経済的には、それまでの「本国-植民地」という関係が見直され、多くの植民地が独立を果たした。政治的には、人々は団結を求め、国際連合を中心とする国際的枠組みを構築した。

もちろん、たった 1 つの戦争がこうした変革を一度に起こしたわけではないだろうが、決定づけたのは紛れもなく第二次世界大戦という「1 つの」戦争だった。そして、我々は、そうした第二次世界大戦によって生み出された「変革」の中に生きているのである。第二次世界大戦を顧みないことは、自らのアイデンティティを否定することに等しいのである。

「戦争は不可避のもの」という考えから、「戦争は忌み嫌われるもの」へと大きく人々の考えが変化したのも、この戦争からであったといえるだろう。特に、広島・長崎に投下された「原爆」、あるいは、ナチス・ドイツによるホロコーストなどは、人々に大きなショックを与えた。反戦運動は後にベトナム戦争などを経て大きなうねりになっていった。

そうした反面、「戦後責任」というものがしばしば問われるようになってきた。戦後、「勝者による裁判」という色合いの強い「東京裁判」をめぐる議論や、戦時中日本による朝鮮半島での実績を評価しようとする動き、あるいは、ドイツにおいても、ナチスの活動に一定の評価を与えるべきだとする歴史修正主義などが唱えられた。こうした議論の根本にあるのは、「誰があの戦争の責任をとるのか」というものである。

特に、日本においては、天皇が東京裁判で裁かれなかったことを始めとして、戦争責任が非常に曖昧になってしまっている(丸山眞男のいう「無責任の体系」)。勝者である連合国ではなく、敗者となった日本やドイツでこうした議論がなされているというのは、非常に興味深いことだが、それには恐らく、「敗者」と簡単に括られることへの感情的反発が根底にあるのだろう。

しかし、私には多くの人が大きな誤解をしているように思われる。それは、「戦後責任」を問うこと自体である。私は、あの戦争に積極的・消極的を問わず関与したすべての人(もっとも、当時、植民地であった国々の人は除外されるだろうが)が、倫理的責任を負わなければならないと考える。それは、他人を告発するものではなくして、自らの心の内で静かに自問自答するものであらねばなるまい。戦場で実際に人を殺めた者(殺めざるを得なかったという人も含まれる)、そうではなく、銃後で兵器を製造した者… 直接・間接問わず、あの戦争に関係を持った者すべてが、倫理的に責任を負っているのである。

一番いけないのは、倫理的責任を感じず、自分の心の中に葛藤を感じることもない者である。そのような者に限って、愚かな論を並べ、自らの側には責任はなく、他者の責任を告発する「検事」の役割を果たそうとするのである。しかし、果たして彼に「検事」たる資格があるのだろうか。

もし、このように、過去の過ちを顧みない者が多くなれば、再び、同じことが起きるであろう。「戦争は不可避のもの」とする考えは未だに世界を見渡しても根強い。しかし、「戦争」という人類の負の手段は、21 世紀の今、放棄せられるべきものであり、あらゆる紛争は平和的に解決せられるべきものである。その強い決意がなければ、平和的に解決できるであろうものも解決困難となるであろう。

倫理的責任は、何も、64 年前に生きていなければ感じる必要はないというものではない。我々は、第二次世界大戦によって生み出された「変革」の中に生きているのである。歴史は途切れることなく続いているのである。今、この瞬間に生まれた赤子にさえ、倫理的責任は生じる。彼は、一生、倫理的責任を感じ苦悩しなければならない。それは確かに、彼の生まれる前の出来事であるから、残酷なものかもしれない。しかし、それは、第二次世界大戦によって生み出された社会の中で生きることへの引き換えとして、彼に課されたものなのである。それは義務である。倫理的責任を感じずに、ぬけぬけとこの社会で生きようとするのは、余りにも虫の良い話である。そんなことがあってはならないのである。

以上のようなスタンスに立ったとき、我々はどのように、第二次世界大戦という過去、否、今に続いている「現在」に向き合うべきか理解できるであろう。8 月 15 日というのは、そういったことを再確認する日なのである。

思考, 戦争

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