社会的動物としての人間が持ちうる二種の対立願望

「あの人は変だ」と言うとき、私たちは何を以て、そう言うのであろうか。どのような基準を以て、他人を自分たちとは違って「変だ」と判定するのか。

そこには、「自分は普通」であるという現状認識と、「普通であって欲しい」という願望が存在しているのである。私たちは何か行動を起こそうとする際、他人と努めて同じ行動をしようとする。スクランブル交差点で人の流れに敢えて背こうとする人間は滅多にいない。「普通であること」を求めることで、他人から承認されやすくなり、社会の中での自らの地位を確立しようとするのである。

しかし、多くの人は「そんなことはない」と言い張るであろう。それは、「普通でありたい」という願いは潜在的なものであって意識的なものではないからである。意識の上では、他者との差異を服装などで図ることで、自らの「個性」を強く打ち出したがるものである。

「他人と同じでありたい」という潜在的願望(「普通願望」)と、「他人とは違った自分をアピールしたい」という意識的願望(「個性表出願望」)とが、私たちの心の中で対立し合っているのである。しかも、多くの場合、この対立は境界線が不透明な対立になっている。中学校を想定しよう。他人とは違った自分をアピールしたいがために、ちょっと他人とは違った格好をしたい(「個性表出願望」)。しかし、だからといって、他人と違いすぎることによって、仲間はずれにされることはイヤである(=他人と同じであることを望む「普通願望」)。結果は人それぞれであるが、多くの場合、「大多数の」他人に合わせて「ちょっと変わった」格好をするのである。

この生徒を「勇気がない」と言い切ることはできない。むしろ、生徒の行動は、正常な人間ならば誰しもが取りうるものである。社会的動物である以上、人間は周囲の視線を気にするものである(その程度は人それぞれであるが)。生徒の行動は、生徒自らが正常な社会的動物としての人間であることを自己証明しているのである。

本来ならば、もう 1 つの問題(なぜ人間は自分と異なる存在を作り出すのか)も考える必要があるだろうが、それについては別の機会に考えることにしよう。今は、私たちの中に、2 つの対立する(しかし明確には分けがたい)願望が存在することを指摘することで満足することにしよう。

思考

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